昭和46年05月17日 朝の御理解



 御理解 第100節
 「目出た、目出たの若松様よ、枝も栄える葉も茂る」と云うではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教える。」

 人間の世界では、是ればかりは銭金では買えないと言う物があります。銭金では買えない。又、買えないなら、黙って取ってくればいい。銭金では買えない物なら。買えんのだから黙って取ってくればいい。なるほど、そう云う手もある。地道には買えない。例えば、国宝とも言われる様な宝物があったとする、もちろん銭金では買えない。この頃なんか、新聞出てましたですね。
 京都のなんか有名なお寺さんの、宝物をなんか盗み出したと云う話。銭金では買えない。けれども盗み出してくれば、それを売る事が、たとえば出来ると云う様なものも有ります。先日ある方の、難儀な問題ですけれども、御取次させて頂いておりましたら、タラバガニという、北海道で採れますカニがありますね。あれの子と云うのが、あれは銭金で買えないんですよね。
 あれは漁に出て、カニを採って来て、そう云う子を持っておる子を、是れはもう天下の珍味と日本人だけが、まああれをまぁなんて云うかかにの眞子と云うて、世界のまぁ珍味とされた訳ですけれども。是れは絶対に採る事が出来ない。採って必ずそれを又海に返さなきゃならない。そう云う決まりがあるそうです。北海道の沖合いで採れるタラバガニの子は、ソ連の人と日本の人が、もう両方から出てきますから。
 ソ連の船には日本人が行って検査をする、日本人の船にはソ連の人が入って来て、タラバガニの子をいるかいないか、と云う検査をする程に厳しいでしょう。ね。2、3日前あの、杉浦みちよさんから聞かせて頂いたんですけれども、あちらのご兄弟が、あの船に乗っておられますからね、実はそう云うその珍品ですかね、珍しい物ですですから船に乗っておる人はですね、其処で採って食べるから、あの持って来いと言う事は出来ない、そう云う厳しい掟を犯しても、それが美味しい物ですから。
 やはりこそっとそれでも持って帰りましょうし、日本人もやはり持って帰ると。それを私どもが時々頂くんですよ。2,3日前もちょっとお客さんがありましたからそれを出しとりますね。その珍品をまぁお客さんは頂いておりましたけれども、私はもうよう頂ききりはしませんでまぁ返したんですけれども。それはもう大変な美味しいもんですね、そう云う例えばその法を犯してでもそう云う珍味というかね味わい物を求める。
 その人ある意味で法を犯して、ええ事している訳ですよね。それは人間の定めた法じゃない。神様の法を犯して、まぁその味わいが忘れられずに法を犯しておる。此処ん所は改まらなならん、と言った様な御理解を頂いたんですけれどもね。そう云う時にそれを頂いた。タラバガニの子ですね。そう言う事をした。だから分らなければ、人が知らなければ、神様が大目にに見て御座るからと云うてです、それを犯しておれば、何時かは、法を犯した事が分る。神様っていうてなけれならん訳です。
 今のうちに改まれと、まぁもっともっと厳しい事でしたけれど、そう云う御理解を頂いた人があった。これなんかももう銭金では買えない物。けれども人間の、まぁ弱いと申しましょうかね、こげな事しちゃいけんのだけれども、こんな事しちゃいけんのだけれどと、そのいけん事を分っておりながらです、それやっぱ持って帰ろうと、ね。私共やはり信心さしてもいよる、信心生活さして頂いている者でもそう言う事。
 だから法を犯してでも持って来れば、持って来られるけれども、矢張り世の中には銭金で買えないって言う物が沢山ある。ね、銭金では買えないと言った様な宝物であってもね、其れを何とか盗み出して来れば、それを入手する。ね、それを手に入れる事が出来る。けれどもと云う所である。今日は徳蔵氏のちょうど88回の誕生日に当たるわけで御座いますから。神様にお礼のお祭りを内内でさして頂きたい。
 私と若先生とそうすっと、愛子と幹三郎と4人で奉仕する事に致します。子供孫光昭と田中さん、田中さんは父の姪に当たりますから、楽の方を入れて入て頂いて、本当にいわゆるうち内だけで、御用して、お祭りをさして頂こうと。まぁ色々皆さんにご迷惑をかけて、色々と準備をさして頂いておる訳で御座いますけれど。今朝から私、勿論是は父が88までもおかげを頂き、長生きのおかげを頂いておるのですから、その長生きのおかげを頂いておる、それこそ銭金で買える事ではありませんよね。
 人間の生命と云うのは、是れはもうどれだけ、もう沢山の金を積んだからというて、もう神様のお許しを頂かなければ、この世に生きておられないと云うのは、私どもの命だから。その命をね、88歳もまで生き長らえさせて頂いて、尚且つ元気でおると言う事は、もう子供としてどれ程神様にお礼を申し上げても足りないと云うのが、本当の心だとこう思います。其処でまぁ神様に、お礼を申し上げると言う事。
 まぁあの子供として当たり前の様ですけれども、そのどう云う心がけを持って、今日おかげ頂いたらよかろうかと、思わして頂いとりましたら、湯のみがね、あの、着物掛け。湯のみ茶碗に、あの紋付きを掛けてあると書いてある、内容と申しますとね。『何時までもあると思うな親と金、ないと思うな運と災難』と云う様なまぁ歌があります。何時までもあると思うな親と金であります。
 親に孝行したいと思う時には、もうすでに親がいないと。だから、まだおられるうちにしっかり喜んでもらって、孝行しておけとこう云う訳ですね。私はその、湯のみ茶碗に紋付きが掛けてあるのをご心眼に頂いて、例えばね、もう亡骸にです、どんなに素晴らしい着物を着せた所で、何になるかと。まだ元気でおられる内にです、良い物も着せておけ、良い物も食べさせておけ、撫でたり摩ったりもしておくと、まぁ云うなら、そう云う意味の事だと思うです。
 いかに、湯のみに紋付きかけて、おお爺ちゃんって言うて呼びかけた所で、返事をしてくれません。そう云う心の限りを、まぁ親には使わせて頂くもんだと、云う様な事をその事から感じさせて頂いたんです。其処でです、『目出た目出たの若松様よ、枝も栄える葉も茂ると云うのではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ』と、其処でいわば、目出たい目出たいと言う程しの繁盛をです、その繁盛の内容がです、法を犯してまでも盗むと言う物であったり、ね。
 普通では買えない物をです、ね、黙って人が知らんからと云うて、それを取って来て、その味を味わおうとしたりしての私は、目出た目出たの若松様よ、であったのでは、是れは子孫繁盛にならないと思うんですね。それをどう言う事かと云うとね、私は我力で作り出すもの、自分の力で、ただ自分の努力だけで、例えば金なら金を貯め上げて行く、成る程貯まれば目出たいかもしれません。
 けれどもね、銭金で買えない、銭金(ぜにかね)では買えないと言う物をです、ね、買うて来るのではなくて、それを取って来た様な物。盗んで来た様な物。それを例えば、あがめてそれが繁盛ると思っておってもです、それが本当の事でない証拠に、必ず何時かそれは法の裁きを受けなければならん。子孫繁盛に繋がらない訳です。我力で作り出すもの。私は銭金では買えない物。
 その銭金では買えない物をです、ね、神様のおかげで頂かせてもらう。私は其処ん所にです、ね、人力に対する神力と申しますかね。神様の力。神様の働き。到底人間の知恵、力では考えも及ばない程しのおかげを受けれる。そう云う、おかげでなからなければ、私は本当は、目出た目出たと言う事ではないのであり、子孫繁盛には繋がらないのである。此処の所を私は分らして頂くと言う事。其処の所ろが、頂けれると云うおかげをです、ね、目当てにしての繁盛でなからなければならない。
 御理解100節が、いわば御理解の全てを此処に結集して、ね、こう云うおかげを受けてくれよと、教えておられるのだと思います。ね、金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教える、とう言われる。御教えの全てであり、その御教え、その子孫繁盛の道をです、私共は果たして辿っておるか、辿っていないかと言う事を、確かめてみなければいけません。其処でです。銭金、金では買えないもの。
 その銭金では買えない物を頂いておる。其処ん所の、私は神恩に対しまする、報謝の生活と云うのは、いかに大切であるかと言う事が分って来ます。神恩に対する報謝の生活。それが、私が今日、奉仕させて頂く父の88の、いわば銭金では買えない、尊いありがたい生命を頂き続けてきたと言う事に対してです、お礼を申し上げる、そう云う例えば心と言う物が有ります。それがもう、無駄な策。
 例えばもう、父がこの世にいなくなってから、まちっとどうかしておけばよかったと云う様な、後悔が先に立つ様な事ではなくてです。例えば神恩を分らしてもらう。親の恩を感じる所に、親に喜んでもらうとか。親孝行って言う事になります様に、神恩を感じさしてもらう所に神恩報謝のいわば、奉仕もできれば生活も出来る訳であります。そう云う例えば生活が出来られる道を、教祖様は教えておられるのです。
 神恩報謝の生活。金光様金光様を唱えさせて頂く所に、ね。まぁそれが即神恩報謝のいわば、表現が金光様でなからなければならんと言う事を申しております様に。あれをみてもこれを頂いてもです、ね、金光さまと思わず喜びの金光様が出る様なおかげ。だからそう云う生活。金光様とこうおそなえを申し上げる。それがそのままあれあれを思いこれを思い有り難いもったいないと思うから、思わず知らず出る金光さま。
 それが神恩に対する、報謝の表現が、あくまでも表現が金光様なのであります。例えば、願う時、頼む時だけに金光様ではない。まぁそれもある。ですからそう云うおかげの頂けれる、私は道を辿らせて頂かなければ。よう言いますよね。「がまだしだす」と。だから例えば「ただがまだしだす」と云う事は、実を言うたら是れは、我力で作り出して行くんですから、何時かはそれは。
 いわゆる子孫繁盛と言う事にはならない。何時かはそれは消える。けれども神徳。神様のおかげをもって頂かしてもらう、神様のおかげをもって枝も栄える葉も茂ると云う繁盛のおかげであるならばです、ね、それこそが神様の喜んで下さる物であり、それこそが人間の知恵力では求め様としても求められないもの。銭金では買えない物がです、神様の喜んで下さる事ができれる道、そう云う道を金光大神は教えておられる。
 そう言う事を金光大神が、子孫繁盛の道を教える、そう云う道を教えておられるのであります。我力の道じゃないのです。ただ「がまがせ」と云うのじゃないのです。そこの所の、いわゆる金光大神が教えられた事を、基にしての精進であり、努力でなからなきゃならん。そこから、頂けれるおかげであるならばです、いよいよ有り難い、子孫繁盛と言う事になって来るのです。
 まぁ銭金申しますと、まぁタラバガニのことを申しましたり、宝物を盗み出したりと云う例をとりましたがね、極端な話ですけれども、私どもの生活の中にね、なるほど「がまだし」だしたということになりましょうけれども、それは取ってはならないものを、黙って取ってきておったりしておる様な事に、同じ神様の目から見る様になれば、そう言う事になっておる事がどのくらいあるか分りません。
 神様のおかげで繁盛のおかげを頂かしてもらうと云う物。神様の喜んだ、神様の喜んだ、銭金では買えないものまで、与えて下さる、恵んで下さると云う様な物。その銭金では買えない物が、ご神徳であります。銭金で買えない物。それを例えば、盗んで来ると言った様な、黙ってそれを、ただ我力でそれを集めたりすると、云う様な事がです、ね、それはまあ成る程、まぁ、二代三代は続くかもしれません、ね。けれども世間で申します様に、長者三代なしと云う様な事を申します様に、ね、
 そう云う結果を生む事になるのです。信心して真の道を分らしてもらうて、その真の道を辿らして頂く事が有り難い。真の道を辿らして頂く事が尊い。又はそれが正しい又はそれが楽しいと云う所までです、金光大神の教えておられる事を、本気で身に付けて行くおかげを頂かしてもらいね。其処からです後で後悔する事のない様な、取次ぎに対する報恩の生活が出来るね。其処から銭金で買えない様な物が頂けれる、徳と力が頂かれる。金光大神はそう云う子孫繁盛の道を教えられたのであります。ね、
 俺が、わしがといういわば、我の生活から、おかげでおかげでという生活。金光様。その内容が神恩報謝の表現だ。あれも見ても、これを思うても、おかげの中にある私たちであると云う事実を実感さして頂く所から、金光様が出る。その金光様と、お唱えさせて頂く生活。ね、そこに神様のお喜びがあり、神様のお喜びと同時に、ご信用が付いて来る。其処から頂ける所の銭金では買えない物。
 それが貯まり貯まって、おかげを頂いて行く、そう云う物が愈々枝も栄える葉もしげると言う事になる金光大神曰く。所謂本当の身においての、目出た目出たと言う事になる。ね、「がなだしだす」と言う事は実を言うたら怖い事。信心を抜きにして真の道を踏まずして、「がまだしだす」と言う事は是は怖い事なんです。そう言う所ね一つ分らして頂いての信心生活を愈々さして頂いて、ね、銭金では買えないものが頂けれる恵まれる、おかげを頂きたいと思いますね。
   どうぞ。